江戸風鈴とは


*名称の由来*

昭和40年頃、二代目篠原儀治は先代から受け継いだガラス風鈴を

・昔の東京すなわち「江戸」で

・江戸時代と同じ製法で作られている

という理由から「江戸風鈴」と名付けました。

「江戸風鈴」という名称が儀治のブランド名ととして生まれ、今でも儀治の承諾を受けた裕、正義、そして、その一門だけが江戸風鈴の名称を使用出来るわけです。

それ以前はガラス風鈴,あるいはビードロ風鈴などと呼ばれていましたが、「江戸風鈴」はブランド名として儀治の承諾を受けた裕・正義、その一門だけが使えるブランド名です。(商標登録済み)

一個一個が手作りですので、同じ形・同じ柄でもそれぞれ異なる音がします。


*江戸風鈴の製造所*

 現在、篠原風鈴本舗、篠原まるよし風鈴の合計2カ所だけです。


*作り方*

炉の中の温度は1,320度前後です。

炉の中には坩堝(るつぼ)というつぼが埋め込んであり、その中でガラスがどろどろに溶けています。

その溶けたガラスを長いガラスの竿で巻き取り、息を入れながら膨らませていきます。

1.口玉(くちだま)を吹く

溶けたガラスを巻き取り小さい玉を膨らまします。

この小さな玉を口玉といい、後で切り離し鳴り口にします。

ガラスの長い棒は「ともざお」と呼んでいます。


2.本体を吹く

口玉の上にもう一度、ガラスを巻いてきます。

この部分が風鈴本体になります。


3.穴をあける

本体の部分を少し膨らまし、針金で穴をあけます。

(後で糸を通す穴になります。)


4.完成

一息で膨らまして完成です。

一連の作業は大体1~2分、ガラスが冷めないうちに行います。

この様に、型を使わず空中でふくらます方法を宙吹き(ちゅうぶき)といい、

江戸風鈴はすべて、江戸時代から300年変わらずこの方法で作られています。



5.口切り

10分ほど冷ましてから、包丁で口玉の部分を切り落とします。

江戸風鈴は音を良くするために鳴り口の部分をわざとギザギザに仕上げます。

このギザギザが江戸風鈴の特徴の一つです。

絵を描き入れ音を鳴らすようにして、完成です。

現在はガラスを溶かす炉に電気で制御された電気がまを使っていますが、

伝統的な炉はコークスが主な火力でした。

当舗でも2000年頃までコークス火力の窯を使用していました。

火の調節が難しく、職人たちは毎朝早くに起きて窯を整えていました。


江戸風鈴の歴史


 風鈴自体の起源は中国にあり、現代とは全く違う使い方でした。

 竹林に下げて風の向き・音の鳴り方で、物事の吉凶を占う占風鐸(せんふうたく)と言う道具が起源です。日本に仏教などと一緒に渡来、この風鐸の「ガランガラン」という音が厄除けになると考えられていました。今現在でもお寺の屋根の四隅に下げられた風鐸を見る事が出来、その音が聞こえる範囲の住民には災いが起こらないと考えられていました。


 平安・鎌倉時代の貴族の間では縁側に下げて、外から疫病神が屋敷の中にはいるのを防いだと六学集に書いてあります。法然上人絵巻には銅製の風鈴が描いてありますが、形は今現在のものとは少し違います。


 ガラス製の風鈴が出始めるのが文献には享保年間(1700頃)とされています。長崎のガラス職人がガラスを見せ物として大阪、京都、江戸にて興行しながら伝わりました。その頃の価格は今のお金に換算すると、一説には200万~300万円ぐらいしたといわれています。


 なぜ、ガラスは高かったのか、それは原料を作る技術がなかったためと考えられます。外国から輸入をするか外国人のいる長崎でしか手に入らなかったため、高価だったとされています。

 江戸末期、学者達がガラスの製造方法を書いた本が出現しましたが、実際ガラスにならない物もかなりあったようです。


 ガラスが安くなるのは天保以後です。大正時代刊行の書物には、「天保以前ビードロ高価なるをもってカラカネの風鈴をたくさん売る」と記述があります。

 また、江戸のガラス屋の問屋である上総屋留三郎が長崎にガラスの研究に赴き、天保5年に江戸に帰ってきます。留三郎はその後ガラスの原料を作って卸を始めたと考えられます。その原料を仕入れ、または職人が問屋から渡されガラス製品を作り、幕末から明治にかけて「加賀屋」、「上総屋」の二大問屋が隆盛を誇るのです。


 「加賀屋」は理化学用のガラス製品を得意とし、一方の「上総屋」はビードロ風鈴、ビードロかんざしなどの嗜好品を得意としました。今現在も「加賀屋」の引き札(カタログ)が残っています。当時から切り子製品など立派なビードロ製品の他2種類の風鈴がありました。「上総屋」の引き札は現存せず、その当時の風鈴など詳しい資料がありません。ただ、ガラス工場の関係の資料を見ますと、江戸の末期から明治にかけて「上総屋」の流れを汲む職人が沢山いました。

 高かったガラス製品が安くなり、江戸風鈴が全盛期を迎えるのは明治20年代です。明治24年刊行の『風俗画報』には、東京郊外の長家の軒下にガラス製の風鈴が下げてある挿し絵があり、「一世を風靡」と書いてあります。そのような時代背景の中、初代又平が明治24年10月に生まれます。


俳諧東土産(1751~64年)より