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 私、儀治は今年の誕生日で77歳になりますが、インターネットを通じてこのような、お話が出来るとは思っても見ませんでした。これから続けられる限り江戸風鈴の話、修行中の話など昔話、現在の話など随筆風に書ければと、思っております。話の時代が前後したり、題からそれたりする事もあると思いますが、お許しください。
 お読みになった感想などありましたら、メール、又は本舗、儀治まで郵便でお便りください。


又平物語 第8回平成14年3月5日
 父、又平は明治24年10月生れで背丈は小さい方でした。無口で頑固、そして商売はあまりうまい人ではありませんでした。明治39年頃酒井硝子に弟子入りし、

名人 吉村清吉 第5回平成13年11月10日 第6回平成13年11月26日 第7回平成13年12月8日

 昭和10年代初頭、私は夜学に通いながら、父の手ほどきを受け、ガラス吹きを(風鈴)始めます。
その当時のうちは昼夜を問わず、何組かの職人たちが2交替で24時間風鈴を作ると言った状態で、同業種の中でも、かなり大きな工場になっていました。そこに私も仕事場に入るとなれば、父にとって大いに意気が上がった時期ではないかと思います。明治生まれの父は頑固で(うちの家族は、わたしのことを頑固と言ってますが。)甘い言葉、余計な言葉など私にはかけてもくれませんでしたが、心の中では、嬉しかったに違いありません。私の息子が大学を出て、工場に入ったとき、私もとても嬉しかったからです。もちろん私も顔には出しませんでしたが。
 その父が、ある日、お伊勢参りなど、と言って旅に出ます。5,6日すると関西から一人の職人を連れてきました。
 その人が吉村清吉でした。
清吉はたいへん男前で、歌舞伎役者をほうふつとさせる顔つきでした。服装も粋な着物姿で、この人がガラス職人なのかと思わせるほど、しゃれた上品な人でした。父はその人と私を組ませるつもりで連れてきたのです。その清吉は無口な人でした。余り自分のことは語らず、仕事一筋な人でした。翌日、仕事始めの時など、「おはよう」と「仕事場は常にきれいに掃除しなさい」だけでした。後は仕事だけでした。しかしその仕事が、これまた大変な幕開けだったのです。
 風鈴は、玉取りといって、3cmぐらいの小さい玉(風鈴の口になる部分)をつくる職人(口玉職人)。そして、そのうえにもう一度ガラスを巻き取り、ふくらまして風鈴にする職人(本職)。通常この二人が組んで、風鈴を作ります。私が玉取り、清吉が本職と言う具合に、組んだのです。ところが、清吉は私が作った口玉を見ては目の前で切り落としてしまうのです。ちくしょうと思いながらまた口玉を作るのですが、それも目の前で切り落としてしまいます。小さいころから父の仕事を見よう見まねで覚えたものです。年は若いが(13,4歳)仕事は一人前と思っていましたから、だんだん腹が立ってきました。その当時うちは「けだし」と言って出来上がった風鈴の個数にしたがって、手間賃を払っていました。ですから、他の職人は、数を作ることに専念して少しの時間も惜しんで、風鈴を作りました。しかし清吉は、朝から炉の脇に口玉の山を作っていたのです。工場の奥のほうで、父が苦虫を噛み潰したような顔でその風景を見ていましたが、口は挟みませんでした。私も生意気盛りです、「なぜこの口玉では、駄目なんですか。」と、くって掛かりました。しかし清吉は、悠然としたもので私を見つめました。目の中で、「こんな口玉で風鈴が吹けるか」と言っているのです。怒っているでもなく、諭しているでもなく、職人としての意地が私を見つめているのです。「親方の長男だからと言って、俺は甘くはしないぞ」と言っているのです。
 吉村清吉、38歳、独身、職人としては働き盛り。    この話は続きます。11月25日ごろ更新予定
第6回分
 初日はさんざんたるものでした。物心がつく前から火の前に立ち、父の手伝いをしていた私をひとつも清吉は認めませんでした。それは負けず嫌いの私の心に火をつけることになります。
 次の日から夜勤の職人の仕事が終わると、すぐに掃除をはじめ、ガラスくずひとつないようにきれいにし、水を打って、清吉の出勤を待ちました。このころの癖が77歳の今でも、私に箒を持たせています。清吉は工場の戸をあけた瞬間目を光らせましたが、表情は一切変えず、着物姿にたすきをかけ、炉の前に立ちました。私は昨日とは違い、口玉(風鈴の鳴り口になる部分。後で切り落とす。)の吹き方をひとつひとつ変えてみました。もともと風鈴はガラスの厚さを均一には作りません。ガラスが薄いところと厚いところを吹き分けてその違いが音に出てくるのです。始めは昨日のように均等に丸く、玉子型、細長く、先のほうを厚く、元のほうを厚く、自分なりに考えつく限りいろいろなものを作り、清吉に渡したのです。口玉職人は本体職人の見習のような印象を受けますが、、そうではない独立した職人の部分もかなりあります。燃料にコークスを使っていたころは、炉の管理(昔風に言えば窯たき)、口玉を切り落とす。ともざを作りなど本体職人より仕事は、複雑多岐にわたっていました。また、そのような独立部分と、本体職人を補助する部分もあります。本体職人の風鈴を作りやすいような口玉を作る仕事がそれです。今、清吉との戦いに勝つには、どのような口玉を求めているか、それを探ることに気がついたからです。昔の職人はどうとか、こうとかあまり云いません。こちらでそれを探し出すのです。
 始めのうち清吉は「この未熟者め。」と思ったに違いありません。くる玉くる玉がすべて違うのです。職人というのは、同じ品質のものがいくつでも同じように作れるのが良いとされます。それがすべて違うとなれば言語道断です。そんな感じで、ここ数日は初日と同じ口玉の山が出来ました。父にとって見れば、大損失です。
 名人といわれた職人を、若年な私と組ませたことに失敗かなと思い始めたころ、じっと見ていた清吉が私の口玉で風鈴を作ります。子供の私にとってこのときの感激は忘れません。清吉が私を認めた瞬間だったからです。
 
 清吉の優れたところは、センスが磨かれていること。それを表現できる器用な腕をもっていたことでしょう。また今まで、台に腰をかけて仕事をしていたものを、立ち仕事にしたこと。それにより体が自由に動けるようになりました。数もほかの職人から比べると作りました。普通、どこの職人でも、1日700個が標準とされていました。私と組んで900個を清吉は作りました。問屋も職人を指定して作らせもしました。
 
 そんな清吉には清元をうなったり(ある家元の子と言う噂)、芸事でも粋な面もありました。
                      次回 完結編に続きます。  12月8日ごろ更新予定
第7回分 平成13年12月8日
 清吉は東京生まれ。何がきっかけで、風鈴職人になったのか定かではありません。東京で技を覚え、関西で腕を磨いたのは事実です。 清吉の中に私がどのように写っていたのだろうか。あまり口を利かない人だから本当のところは分かりません。しかし私を育ててやろうと言う気持ちは伝わってきました。実際に、風鈴のこと、職人のこといろいろ身につけさせてもらいました。
 さて、その後の清吉は私が徴兵になるまで、うちで働いています。あまりにも上手すぎる清吉にほかの職人のねたみは激しく、私がいなくなった後のことを考えると心配で、向島に工場を持たせます。そこで作った風鈴をうちに卸すということで話をまとめ、私は兵士となり、中国に渡ります。
 昭和19年、20年、は燃料、原料などが手に入らず、平和産業の風鈴は作ることが出来ず、両親は京成電車の押上駅の前で「ふかしいも」などを売って生計を立てます。私が復員する20年末ごろまで続きます。
 復員した私は休むまもなく、風鈴、ガラス工場を復興するよう、材料、燃料、問屋などに四方八方に飛び回ります。21年ころになるとそれが形をまとめ始めたころ、警察から電話が入ります。
 清吉の仮出所の身元保証人になって欲しいと言うのです。戦時中、向島に工場を持った折、独り者の清吉のために賄いを近所の奥さんに頼みます。二枚目ぶりがあだとなり、その奥さんと男女の関係になってしまいました。夫から訴えられて、姦通罪(昭和22年廃止)で有罪となり、網走に服役する羽目となっていたのです。仕事には精通してても、世情にうとい職人の典型的な一場面を見た想いでした。受け取りに行ったときの顔を思い出すと照れ隠しのすまし顔が目に浮かびます。しかし、私のほうは信用されていると想い何か安心しました。
 しばらくはうちで働きます。工場のほうは仕事が軌道に乗り、駄菓子屋で売る「かんてんを入れるガラス棒」、「こんぺい糖を入れる星型のガラス瓶」、「インク瓶」など、風鈴以外のものが大当たりして大繁盛します。私は営業や、風鈴の本体つくりとなり清吉とは仕事を組む機会がなくなっていきました。そのうち清吉は姿を消してしまいます。
 数年がたち、我が家は、焼け野原に総ヒノキの押上御殿(その後、私に隠れて母が金貸しを始めます。それが失敗し、財産をすべてなくしてしまいす。跡地に映画館が建ちました)と言われるくらい立派な家を立てました。昭和23年から27年ごろは本当に忙しい時期でした。
 清吉が皆の記憶から消えかかったころ、浅草の病院から電話がかかります。浅草寺の裏のひょうたん池の付近で行き倒れになっていたというのです。すぐに病院に駆けつけました。そした、その場で見た清吉は変わり果てていました。まだ50代というのに白髪と顔のしわに、あの歌舞伎役者を髣髴とさせた面影はどこにもありませんでした。横に座った私に、震える手で自分のはめていたものと思われる、金時計を私の腕にとうしてくれました。何か云おうとして、口をあけるのですが言葉にはなりません。やっと私の名前を呼ぶのが精一杯のようでした。あの毅然とした着物姿の清吉など何処にも見つけることは出来ませんでした。しばらく話をして、また来ますからと席を立った私にかすかに手を振ってくれました。
 すぐに行くつもりが、仕事の忙しさにかまけて、10日ぐらいたって病院を訪ねました。ベットは空になっていました。看護婦に尋ねると、7日前になくなり、たった一人の妹が引き取っていったというのです。唖然としました。これから恩返しが出来ると思っていたのに、何も出来なくなってしまいました。あまりにもあっけない死に方に私の心に大きな穴があきました。身内でもないのにこの気持ちはどうしたのだろうか。病院から自宅までどのように帰ったのか記憶にありません。しばらく自分をなくした時期が続きます。この悲しさも風鈴の復興と共に時が忘れさせてくれました。

 あれから、50年以上が経ち、清吉さんのことを思い出すと不思議なことがたくさん出てきます。そのひとつに延べ10年以上一緒に仕事をしたのに身の上話を聞いたことがないのです。どのような生まれで、どのように育ち、何故関西に行ったのか、本当に清元の家元の御曹司だったのか、みんな他人からの伝聞でしか清吉さんの過去を知ることは出来ませんでした。聞いたことはありましたが、仕事の話はけっこうしましたが、身の上話は笑って正直には答えてくれませんでした。当時の私が子供だったから、話し相手にならなかったのでしょうか。いえ、そんなことはないでしょう。きっと、「俺が作っている風鈴こそ俺の人生なんだ」、と私に叫んでいたのかもしれません。
                                          この話 完


東武鉄道、虎橋通り駅界隈 第4回平成13年6月3日

 昭和初期、東武鉄道、亀戸線には亀戸駅から亀戸水神,平井街道、小村井、十間橋、虎橋通り、曳舟とありました。
 小村井駅は貨物の車庫、倉庫街などの駅でした。
 私の家の最寄り駅は、虎橋通り駅です。無人駅でした。
 虎橋の由来は原忠質店のお虎おばあさんが私財を投じ用水路に橋を架けました。そこから虎橋と名付けられました。
 駅前から小さな商店街がつながっています。真ん中あたりに私の家がありました。横町を曲がるとそこは田園風景が広がるのどかなところでした。田んぼがあり、畑があり、原っぱがあり、用水路などがある子供の遊び場にはもってこいのところでした。その商店の倅や娘が遊び仲間で芋屋の倅、パン屋の倅、佃煮屋の娘、アイス屋、下駄屋の娘、そして畳屋の倅がガキ大将でした。みんな着物を着て遊んでいましたが、鼻をふく袖のところは「テカテカ」に光っていました。そして男と女は一緒には遊びませんでした。
 そのガキ大将は「子分」たちを従え、夜暗くなるまで遊んだものでした。「子分」たちへの分け前を集めるのもガキ大将の役目でした。たとえば、雨が降ると道は泥だらけになる、するとそこに藁をひいて人が歩きやすいようにしました。その藁を少し失敬し、乾かして自分のところの畳の藁と混ぜ、芋やさんに持って行くと、お芋と換えてくれました。それをみんなで分けるのです。また、米屋さんでぬかを貰い、それを布に詰め、風呂屋さんに糠袋として売りに行くのでした。そのお金を集め、飴を買ったりしました。

 一昨年(平成11年)けがをして墨田区中居堀にある病院に通う日が続いたのですが、その病院から歩いて10分もしないところに自分の家が残っていることを知りました。立ち寄ってみると、板の外壁の上に新しくトタン板を打ち付けた、確かに昔10人家族ですんでいた長屋がそのまま残っていました。子供の頃はあんなに広いと思っていた道が、この道なのかと思うとびっくりしました。
 私が住んでいた長屋の前にただずんでいると「きんちゃんあそぼー」と聞こえるような気がしました。


行商と問屋さんのお話 第3回平成13年4月8日

 半世紀前の風鈴やさんはどうだったか、一筆語りましょう。
 昭和初期は不況の時代でした。職のない人が沢山いました。その中から資本のいらない行商を進んでする人が、出てきたのは当然です。風鈴の場合(ひき売りとも云う)、担ぐ台(風鈴を下げる)は、1日賃料いくら。商品は朝、数を数え、当日残高を調べいくつ売れたから、何円という風に即日決算をしました。1週間も売れば1ヶ月ぐらいの収入が出来ました。現在の車社会と違い、路地裏どこでも行商が出来た時代でした。 そんなわけで、風鈴やさんは売れて売れて大変忙しい思いをしました。我が家でもそのような行商の道具を何台も持っていました。
 一方、問屋さんは浅草蔵前ではたいていはどこでも扱っていました。その中で一番大きいのが池田玻璃商会でした。我々が会社に納品というと、そこでした。夜の12時をすぎてもお店は開けており、小学生の私が大八車に風鈴を乗せ、小僧さんとよく納品に行きました。倉庫に持って行くと、倉庫番のおじさんが大福帳に数量を書き込んでくれ、月末には現金になりました。きっちりとした問屋制度が職人を守っていました。その他、傳田恭造商店、武者亀商店、立澤商店などがありました。現在では・・・そんな景気の良い話はありません。   つづく


生い立ちの記(学校編)第2回平成13年3月8日

 大正13年、向島に生まれます。当時吾嬬町は東京府下南葛飾郡請地町字吾嬬西1の109と言っていました。
見渡す限りの田園地帯で、とてものどかなところでありました。
 子供の足で歩いて数分の所に日活の撮影所があり、時々オープンでロケーションをしていました。
池があり、金魚の養殖所があり、畑があり、牛馬の屠殺場があったりしました。
 私の上に女ばかり3人いて、4人目に生まれた男の子が私であります。その後、弟が6人、妹が1人計11人の兄弟姉妹となります。
 昭和初期の我が家は、職人が6,7人いて2つの窯で24時間休み無く、交代でガラスをふくらましていました。春から夏は風鈴、秋から冬にかけては酉の市の熊手につける銀玉作りと言う風に。
 父は外交が苦手な人で、工場に入ったままでした。一方母は外交、風鈴、熊手の玉に金や銀の色つけなどをして一日中忙しく、子供の世話まで手が回らず、近所で大工の奥さんが面倒を見てくれていました。もちろん姉たちや長男である私もずいぶんと弟や、妹の世話をやかされました。
 小学校3年ごろ、習字の塾に通うようになります。塾の帰り道、筆いっぱいに墨を含ませ、寄り道をしながら看板という看板にいたずら書きをしました。そのせいか、2年ばかりで初段をとりました。
 高等小学校を卒業する頃になると、上の学校に行きたくて、両親に内緒で入学試験を受けました。もちろん昼は仕事(ガラス吹き、注文取り、納品配達など)のため、勉強できるわけがなく、夜間の商業学校を受けるわけです。
 「職人には学問はいらない」と言う考えの父親からすれば、受験は私にとって大冒険でした。
 その当時の父親は本当に怖かったのです。
 合格通知が来て、両親の知る所となり、父の雷がすごい勢いで落ちる覚悟をいていました。ところが、その父が入学式の日に紋付きの羽織袴で出席をしてくれる、大変な親ばかぶりを見て、暖かいものを感じました。
 しかし、本当に大変なのはこれからで、5時半から始まる授業に、5時までみっちり仕事をし、空腹のまま自転車のペダルをこぐ毎日でした。当時、跡継ぎは長男と決まっていて、家の中心として働きました。責任ある仕事が10代の私の肩に乗っていたのです。少したつと、身長160cm体重30数kgの骨皮筋衛門(骨と皮と筋ばかりに痩せているという昔のたとえ)になりました。無理がたたり、体をこわすのですが、何とか卒業しました。
 その後、法政大学の夜間にも合格、通学しますが、一年もしないうちに、戦争により徴兵され、学問の道は閉ざされてしまいます。      第2回終わり

 


江戸風鈴の由来第1回 平成13年2月12日
  江戸風鈴とは、約2000年前の昔、唐の時代、岐王が東西南北に玉片を、中央に舌(ぜつ)をつるして、当たる方角で吉凶を占っていたのが占風鐸の始まりです(江戸風鈴の紹介、歴史の部分と重複)。わが国の僧達が日本に持ち帰り、形を整えて、音を聞く、それが信仰の元になったのである。つまり風鐸と言われる物である。それが風鈴と呼ばれるように至ったのは、鎌倉時代の僧で、法然上人が風鈴(ふうれい)と名付けたことによる。後に同じ漢字で「ふうりん」となり今に至るのである。風鈴も材料によって種々作られるようになる。
 その一つにガラスがある。日本のガラスも瑠璃,玻璃と言われる時代から、ビードロ、ギヤマン、グラスと呼び名も異なるが2000年の長い歴史を経て今日にいたり、学校の教科書ではガラスで呼ばれている。
 ではガラス風鈴はいつ頃からと言うと、1,700年初期に作られているのが資料で認められている。市井に出るのは1,800年頃からで大変人気があったという。
 先日、ラジオで、ヨーロッパでは東洋文化が見直され、特にイギリスの各地では、風鈴を戸外につるしその音からエネルギーをもらうと、吉運がつくと唱され、騒音になるような大きな物まで現れたそうです。あまり大きな音を出すと罰金を取られると言うことなのですが、それでも,罰金を払ってでも、つるすという人がいると話してました。世の中も所かわれば・・・・,である。
 「江戸風鈴」という名は江戸時代から伝わり、今もここ東京で受け継がれていることから昭和39年、40年頃に私がつけた物です。よき時代の風雅を楽しまれることをおすすめする次第です。
 今回は第1回ということで、かたぐるしい文章になってしまいましたがその内、肩の力が抜けてくるればと思っています。それでは、次回お楽しみに。    第1回終わり




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yutaka sinohara
制作 篠原風鈴本舗
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